春の山菜取りから夏山登山・川遊び、秋の紅葉狩り・きのこ狩りと、例年であれば、人々が山でレジャーを楽しむ期間は、そのまま日本列島に自然分布する唯一の猛獣「クマ」の活動期にあたります。
近年、毎年のようにクマ関連の事件が多発するようになっています。その原因についてさまざまに推測され、「クマは飢餓状態にあり困って人里に下りてくる」という意見から「クマは明らかに数が増えている。人を恐れなくなっているクマにはより徹底的な駆除が必要」という意見まで、クマをめぐってさまざまな主張や議論がなされています。今、日本のクマは実際どういう状態で、彼らが絶滅したらどんな影響があるのでしょう。「クマ問題」について考えてみました。
ニホンツキノワグマは近年、数が増えているとされていますが…
クマは絶滅しても生態系に影響がない?
世界にはクマ科の現生種は、あのジャイアントパンダを含めて8種類。このうち日本には本州以南にアジアクロクマ(ツキノワグマ)の島嶼亜種ニホンツキノワグマ(Ursus thibetanus japonicas)、北海道にはヒグマの島嶼亜種エゾヒグマ(Ursus arctos yesoensis or U. a. ferox Temminck, 1844)の二種が分布しています。
毎年、ヒグマは約300~600頭、ツキノワグマは約2,000~4,000頭もの個体が捕殺されています。以前にはヒグマはおよそ2,000~3,000頭、ツキノワグマはおよそ1万頭前後が生息しているとされていたのですが、捕殺数の多さから、どうももっと多いのではないかという推測もされています。
最新の推計によればヒグマは全道で4,000~1万7,000頭(北海道環境生活部環境局 2014)、ニホンツキノワグマは既存情報の集計から約1万2,000~1万9,000頭(環境省 2011)、とりわけツキノワグマは階層ベイズ法によれば最大値9万5,000頭以上との推測(ただし捕殺数から生息を類推する階層ベイズ法では捕殺が増加すると生息数も増大するという矛盾した問題も出てくるため、その数値の確度については疑問や異議が提示されています)もあります。約10万頭という推測はやや多すぎる気がしますが、3万程度の頭数は十分あり得ます。というのも、ツキノワグマの分布域拡大は、2000年代に入ってから各地で顕著な傾向だからです。ツキノワグマの個体数がもともと多い秋田や岩手などの東北地方での分布域が拡大しているばかりか、生息数が少ないとされてきた近畿や中国地方の街中、クマの分布が認められなかった茨城県、神奈川県の丹沢や箱根に接する街中などに出没するなどし、時に人を襲い命を奪うといった事象も起こっています。
クマは大きな体と強い力を持つ動物で、自然界に天敵がいません。でありながら積極的に草食獣を捕らえて食べることはほとんどないため、オオカミやライオン、タカのような生態系の頂点に位置するアンブレラ種とは言いがたく、生態系の中での役割があいまいなため、人間に害を及ぼすくらいならば徹底的に殺処分して数を減らすか、絶滅させてもかまわないといった極端な意見も時折提示されます。
本当にクマにはなんら役割がなく、死に絶えても何も影響はないのでしょうか。
愛嬌のある見た目からファンも多いのですが、元来肉食の猛獣です
元肉食獣「クマ」は、日本列島の森林を維持管理するマネージャーとなった
クマ科の共通の先祖は、中新世の約2,000万年前、食肉目から分岐したDawn Bear(暁の熊 Ursavus elmensis)まで遡ることが出来ます。小型の犬ほどの大きさで、ジャコウネコのような長い尾をしていたようです。その後クマ科はユーラシア・北米大陸で徐々に巨大化していきます。食肉目の肉を食いちぎる裂肉歯が退化し、臼歯が丸みを帯びて尾は短くなり、足は太く短く、体重や骨格が太く重くなって、ネコ科やイヌ科に見られるかかとを上げてつま先で歩行する趾行(しこう)から、かかとまでべったりと地に付けて歩く蹠行(しょこう)性に変化しました。
この変化は、獲物となる草食哺乳類の巨体化に対応してサイズアップしたとも考えられ、その進化分岐の過程では、約200万年前に、史上最強の陸生肉食哺乳類とも目されるアルクトテリウム・アングスティデンス(Arctotherium angustidens)が出現します。後ろ足で直立したときの背丈は4.5m、四足状態での肩高ですら2.5m、体重は1.5~1.8tもあったとされます。
このアルクトテリウム・アングスティデンスを含むアルクトテリウム属(Arctotherium)は、ショートフェイスベアともいわれ、現代のクマよりも足が長く健脚で、強大な牙があり、当時多く生息していた巨大な草食獣を捕らえて食べる肉食に特化した種だったと考えられています。
現在のクマ科の多くは雑食です。更新世の終わり、寒冷化とともに地球上に大繁栄していた大型の哺乳類が次々と絶滅、小型化したすばやい草食獣たちを大きなクマが捕らえることは困難となり、クマは植物食に傾く雑食に適応したとされています。
現代、肉食に特化しているのはホッキョクグマのみで流氷を盾にして潜み、アザラシやセイウチなどの海生大型哺乳類を獲物とします。北極という特殊な環境のおかげで彼らはその巨体で本来の肉食の生態を維持出来ているのでしょう。
私たちはまず、クマが本来肉食獣であり、獲物を捕らえて食べる本能を内に秘めていることを理解する必要があります。そして次に、クマが寒冷化に適応して進化した、寒帯から冷温帯に順応した生き物であるということも把握しておく必要があります。
日本列島が大陸とつながっていたとされる氷河期時代、ヒグマとツキノワグマは再三にわたり大陸から渡ってきて、全土に住み着きました。今よりも冷涼な更新世の氷河期時代、日本列島は現在の秋田県や青森県にまたがる白神山地のブナ原生林のような落葉広葉樹の森林がずっと南まで広がっていました。やがて地球が温かくなり照葉樹林が広がり始めると、ヒグマは本州以南からは絶滅し、ツキノワグマの生息分布も北日本に偏在するようになります。クマは暖地の照葉樹のシイやカシのドングリも食べますが、何より好物はブナやナラなどの寒冷地のドングリです。
クマは夏から秋にかけて、ドングリ類の実を、木によじ登り太い枝に腰掛けて小枝を折り取り実を食べます。食べ終わった残りの枝はどんどんお尻に敷きこんでいきます。こうして出来た大きな鳥の巣のようなハンモックは「熊棚」と呼ばれ、ヤマネなどの樹上性の小動物の棲家になる他、枝を折り取ることで日光が林の中に差し込むギャップが作られ、サルナシやヤマブドウなどの植物の生育に役立ちます。この熊棚によるギャップは台風の倒木などで出来るギャップの6倍ともいわれており、森の新陳代謝の大きな役割を果たしています。
また、行動半径の広いクマは、消化されなかった木の実の種子を多く含んだ糞を広範囲に落とし、樹木の拡散と更新にも貢献しています。人にとって大きな脅威であるスズメバチも、クマにとってはご馳走。巣ごと襲って幼虫を食べてしまいます。
海から川へ遡上してくる鮭も、ヒグマが食べ、広域を歩き回ることによって、その排泄物を通じて川沿いだけではなく山奥まで海の滋養がもたらされることになります。
一方、寒冷期に列島に住み着いて狩猟採集で生計を立てた日本人の祖先は、縄文・弥生時代の温暖化に応じて、氷河期時代の馴染み深い落葉広葉樹を低山の森林に手入れすることで維持し、南方種である稲栽培と融合させて里山環境を作り上げました。
つまり人類とクマは、森林が全土の七割を占める日本列島において、ともに広葉樹の森を維持するマネージャーのような役割を果たしてきたのです。人間の生産活動や食べ物の好物(木の実、山菜やタケノコや蜂蜜など)がかぶるクマが、里山や低山などの接触地帯で衝突してしまうのは、ある意味仕方のないところもあるのかもしれません。
クマが木に登り、木の実を食べながら枝を座布団にした熊棚
クマの絶滅は森林の壊滅。その理由とは?
クマが人里に出現する理由として、「かつては農村で維持管理されていた里山が放棄され、緩衝地帯がなくなったからだ」という言説がよく聞かれます。しかしすでに述べているとおり、里山環境はクマにとっては好物の木の芽や木の実、蜂の巣などが豊富にある好ましい場所なのです。里山整備がクマの街中の出没を防ぐ手だてになるとは思われません。
また、林業の衰退によってスギ・ヒノキの人工林が荒廃し、むしろ植物相が自然林に近くなり、えさが豊富にあるからクマが増え、増えすぎた個体が山を降りてくる、という見立てについても大きな疑問があります。というのも1990年代から目だって顕著になってきた病害虫による森林木被害が、近年いっそう増しつつあるからです。それはカシノナガキクイムシ(Platypus quercivorus)によるカシ、シイ、ナラ類の枯死問題です。かつては木炭材として盛んに利用されてきたそれらの樹木が戦後利用されなくなり大径木化することでカシノナガキクイムシの大繁殖を招き、各地で大量枯死を招いているのです。
また、地球の寒冷期に繁栄進化したブナにとって、人類の産業活動による環境汚染は大きな負荷と衰弱をもたらしています。世界自然遺産の白神山地のブナ原生林では、本来3~5年ごとにしか実をつけないブナが毎年実をつける現象が確認されています。一見よいことのように思われますが、ブナのシイナ化(中に種子のない殻だけのうつろな実)が多発し、このためブナが必死に毎年花をつけているのです。消耗したブナはいずれ枯死することになります。ブナ林の減少・死滅は、分類樹モデルによる予測では最悪の場合10~30年後には現在の半分以下に減少し、世紀末にはほぼ壊滅するとの試算もあります。
今のところブナ・ナラ林は漸減しつつも維持され、かたや山村・農村の過疎化や農地の放棄で、一時的にクマたち野生動物には食糧が手に入りやすい状況です。しかし中長期的に見ると、ブナやナラの死滅、続いてカシやシイが死滅すれば、野生動物たちの食糧が激減する深刻な岐路が必ずやってくるでしょう。
クマの大切な食糧源のブナの実。ブナは危機に直面しています
いわば、森の守護獣であるクマを保護するためには、彼らが肉食獣であり、ときに人を襲う可能性があることを理解し、適度な狩猟圧に加えて、彼らの住処である森林を良質に保つための努力を続ける必要があります。
木炭の使用・需要は炭素排出になりますが、森林が維持されれば排出される炭素は適切にふたたび植物に吸収されます。その循環の中で、クマとの共存をはかっていくことが出来るのではないでしょうか。
広大な森林が屋台骨となっている日本列島。クマが絶滅するときは山が死滅するときであり、その次にはこの国に暮らす人間に大きな困難が襲ってくるかもしれません。
参考・参照
・日本の動物 旺文社
・生物大図鑑 動物 世界文化社
・「ツキノワグマおよびヒグマの分布域拡縮の現況把握と軋轢抑止および危機個体群回復のための支援事業」報告書
・クマ類の出没対応マニュアルの改定について
・クマ類による人身被害について [速報値]
・林野庁 ナラ枯れ被害量の推移
・クマやオオカミの駆除へ、人への襲撃増加で ルーマニア
クマは日本列島の広大な森に寄り添い生きてきました