遊具は金属供出で解体、一部は農地に…戦時中も耐え抜いた「ひらかたパーク」 明治から続く“日本最古の遊園地”の変遷

平藤 清刀 平藤 清刀

日常生活を忘れさせてくれる、ワクワクする空間「遊園地」。今ある遊園地で最も長く継続して営業している遊園地は大阪府枚方市にある「ひらかたパーク」とされる。つまり日本最古の遊園地ということ。その歴史は、明治時代までさかのぼる。ひらかたパークを運営する株式会社京阪レジャーサービスに話を聞いた。

営業を継続している遊園地では日本最古の「ひらかたパーク」

大型テーマパークができる前の時代、子供たちがワクワクする場所のひとつが遊園地だった。では、日本でいちばん古い遊園地はいったいどこだろうと調べてみたら、筆者の地元、大阪府にあった。1912年に開園した「ひらパー」こと「ひらかたパーク」である。もっとも開園当時、「ひらパー」の愛称はまだない。

京阪電車(京阪電気鉄道)に乗って大阪側から「枚方(ひらかた)公園駅」に向かって走ると、駅に着く直前あたりで右側の車窓にひらかたパークが見える。だが、初めから今の場所にあったわけではないそうだ。

ひらかたパークには、その前身というべき施設があった。それが1910年の春に、京阪電鉄が旅客誘致のための沿線開発として開業した「香里(こうり)遊園地」で、北河内の丘陵地帯2万8000坪の敷地を買収してつくられた。

だが、諸事情により、香里遊園地は1911年に住宅用地として売却された。それでも香里遊園地で開催されていた、菊の花を使って人形をつくる菊人形興業の人気が高かったため、枚方駅(枚方公園駅とは別の駅)付近の土地3000坪を購入して菊人形興業の会場をつくった。1912年に、100体の菊人形を揃えた「ひらかた菊人形」として開催された。これが後に京阪電車の看板イベントとまでいわれた「ひらかた大菊人形」の始まりであり、ひらかたパークの前身「枚方遊園地」の始まりとなった。

金属供出で遊具を解体され土地まで供出した戦時中

1929年に発行されたポストカードには、写真のキャプションが「大菊人形」となっている。これが当時は人気のイベントで、1936年の入場者数は39万人と記録されているそうだ。

1937年に日中戦争が勃発すると、ひらかた大菊人形は陸軍省と海軍省の後援となり、興行の内容に戦時色が強くなっていった。大菊人形は1943年を最後に中断され、遊園地の遊具は金属供出で解体、遊園地の一部は食糧増産のための農地になったという。

戦争が終わると、1946年に千里山遊園で菊人形興業が復活する。その後、1948年まで「大阪名物年中行事ひらかた菊人形復活・千里山菊人形」と称して3回の興業が行われた。でも、やはり枚方市に戻そうという機運が高まり、枚方市が臨時の市議会まで開いて京阪神急行電鉄(戦時中の国策により阪神急行電鉄と合併)に枚方市での開催を申し入れたという。

その条件として枚方市は、旧来の遊園地につづく丘陵地域を提供し、1949年5月から造成をスタート。10月には「ひらかた大菊人形」として6年ぶりに枚方の地で復活した。

このように、ひらかた大菊人形の歴史はひらかたパークの歴史と切っても切れない関係にあったが、菊師の高齢化や後継者不足などの事情により、2005年の第96回をもって閉幕している。

一方、ひらかたパークは、1991年に園内のいちばん高い丘の上に回転直径53メートルの大観覧車「スカイウォーカー」を設置し、1992年夏からはナイター営業も開始。1996年に大規模なリニューアルオープンを行い、この年から「ひらパー」の愛称も決まった。その後も大型遊戯機を設置したり、プールゾーンを「ザ・ブーン」(THE BOON)と名付けてリニューアルオープンしたりするなど、ファミリー層に加えて若者層もターゲットにした営業戦略を展開している。

ひらかたパークの今後について聞いてみた。

「今までと変わらず京阪沿線を中心とし、とくに地域のファミリー層に愛される遊園地であり続けたいです。また、若者層にも楽しんでいただけるように、イベントも引き続き充実させていきたいです。そして、コロナ前に伸びてきていたインバウンド需要を掘り起こすことが大切と考えます」

関西では2003年以降2006年までに、甲子園阪神パーク、宝塚ファミリーランド、近鉄あやめ池遊園地、神戸ポートピアランド、奈良ドリームランドが相次いで廃業した。そんな中、唯一生き残っているひらかたパークは貴重な存在といえる。

▽ひらかたパーク
https://www.hirakatapark.co.jp/
▽公式Instagram
https://www.instagram.com/hirakatapark/

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