終戦後の1950年代から約20年にわたり、スポーツとして再出発した日本柔道の発展を願って発行された専門紙が、京都にあった。タブロイド判の定期新聞「柔道タイムス」。発行人で京都の柔道界に貢献した栗原民雄氏(故人)の親族が保管していた原本が、このほど京都市内で見つかった。紙面には、講道館柔道の創始者、嘉納治五郎や大物政治家らも筆を寄せ、示唆に富んだ内容は「柔道界の羅針盤」と高く評価されていた。
第1号は1950(昭和25)年3月15日に「スポーツ柔道新聞」の題字で発行された。栗原の友人で兵庫県姫路市の新井佐市が私財を投じて発刊。第2号から「スポーツタイムス」と改め、各地の柔道大会の結果や技を紹介する柔道講座のほか、嘉納治五郎が柔術と柔道の違いなどを説いた「柔道神髄」、日本レスリング界の父と呼ばれた八田一郎の海外遠征記など他競技の記事も掲載されている。
53年4月から栗原が編集発行人を引き継ぎ、「柔道タイムス」として再出発した。編集場所も姫路市から京都市左京区に移った。栗原は編集責任者としての意欲を語るとともに「柔道はスポーツとして復活を許可されたが、単にスポーツとして甘んじてよいものだろうか。柔道はスポーツよりもより高きものに止揚しないでよいだろうか」と記している。
柔道タイムスは71(昭和46)年3月の第515号をもって廃刊。それまでの紙面では、京都帝国大(現京都大)出身で元運輸大臣の江藤智や元京都市長の高山義三らの寄稿をはじめ、「現行の段制度は行き詰まっていると思うがどうでしょうか」などと問う独自のアンケートも実施した。
栗原の三女順子さんの夫で、原本を保管していた立命館大名誉教授の岡尾惠市さん(84)=京都市左京区=は「紙面には多くの専門家が寄稿し、戦後の混乱期を含めて柔道という競技がどう歩んできたか、詳細に分かる貴重な資料ではないか」と話す。
柔道家・栗原民雄の名前が全国にとどろいたのは、1929(昭和4)年5月に開催された「昭和天覧武道大会」の優勝が大きい。現在の全日本選手権のような大会はまだなく、前年の昭和天皇即位大礼を記念した大舞台で、33歳の栗原は高段者が集った指定選士の部を制して「柔道日本一」に輝いた。
1896(明治29)年に姫路市で生まれ、旧制中学時代に柔道を始めた。かつて京都市左京区にあった「大日本武徳会武道専門学校」(武専)に入学すると、抜群の強さでスピード昇段を重ね、卒業時の保持段位(四段)の新記録を作った。
栗原は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)による公職追放を受けている。戦中に武徳会京都支部理事に就任したことが理由だった。当時は柔道も「国民体力の向上」「国民精神作興」に寄与するとして国策に組み込まれ、栗原もその一端を担ったとされた。武専や京都帝国大、京都府警で就いていた柔道師範の職を離れることを余儀なくされ、51歳で苦難に直面した。
それでも強い決意で「新生柔道」の普及と発展を願い、自身の道場を開設。公職追放が解かれると、再び府警の柔道師範に迎えられ、京都の道場連盟会長に就任した。立命館大の講師、柔道部師範として指導に当たった。
晩年は全日本柔道連盟理事や京都柔道連盟会長などの要職に就き、64年東京五輪で柔道の正式採用が決まると、大会成功のために心血を注いだ。功績に伴う叙勲を受章した時のインタビューでは「育て上げた弟子はざっと3千人、八段だけでも40人はいる」と答えたという。