「スーパーの屋上」に、戸建て住宅が立ち並ぶ!? 都心の超一等地…実は奇跡の再開発

二階 さちえ 二階 さちえ

 ビルを背景に三角屋根の家が並ぶ。東京都心の超一等地・新宿区富久町だ。乗降客数世界一(2018年当時)の新宿駅まで徒歩15分。億ションでもそうは建たない場所になぜこんな“普通の二階屋”が? 住んでいるのは誰なのか? そこにはバブルと再開発の嵐に負けず大切な暮らしを守った人々の奇跡のような物語があった。

 家々はスーパーマーケットの上に載っている。脇には地上191mの高層マンションがそびえ立つ。冗談のようなこの環境は、大規模市街地再開発事業『富久(とみひさ)クロス』の一部で、ペントテラスと呼ばれるエリアだ。

 隣接する中層建物の屋上部分も含めて22軒の低層住宅がある。それぞれ形は多少違うが、吹抜のリビングと居室のある一般的な間取りで小さいながら庭もつく。家々の間に路地が走り、小広場にはベンチが置かれ、樹木や草花が揺れている。

 「敷地は人工地盤で足下にスーパーがある」と言われても、にわかに信じがたい風景だ。人通りがなく静かなこと、あまり古びていない塀や石畳の表情などに人工性は感じるが…。

 40~50年ほど前、この界隈はこんな風景だった。

 最都心らしくない狭い道に店舗を兼ねた小さな家々が並び、路地で立ち話が交わされ子どもたちの声が響く。味噌醤油の貸し借りやおすそ分けはあたりまえ。かつてあった下町的ご近所づきあいの記憶がペントテラスには込められている。

 ここに住む人の多くがその頃からの住人だ。バブル経済が運んできた無茶な地上げや力ずくの再開発計画の暴風の中、温かい地縁コミュニティの中に住み続けることを願い、この環境を勝ち取った。

 話は1980年代後半、バブル経済隆盛期にさかのぼる。

 1坪600万円。ジュラルミンケースを抱えた開発業者が富久町の地権者に提示した土地の買取価格だ。さらに売却後の担保価格は場所によって1平方メートルに満たない土地に530億円もの値がついたという。バブルがいかに現実離れしていたことか。

 当時は小店舗での商いや自営業に従事する住民も多かった。いくら愛着があろうと目の前に札束を積まれては、土地を手放す者が出ても無理はない。

 進む地上げで人がいなくなり、まちは虫食い状態と化す。昨日まで「絶対売らないで住み続けようね」と言い合っていたお隣が朝になったら居ない、そんなことが続いてコミュニティは壊れ、残った住民同士も疑心暗鬼にさいなまれていった。

 そして1992年、バブルが崩壊する。潮が退くように開発業者は逃げ、価値が下がって誰も手を出さない、不整形で使いづらいまちだけが残った。空き家が増え灯火も減り、不審火やホームレスの増加で半ばゴーストタウン化したその惨状がテレビで取り上げられる。

 そんな中、ついに立ち上がる人々が現れた。

 最後まで土地を売らなかった地権者の8割以上にあたる約百人が“まちづくり組合”を結成、早稲田大学大学院の研究者が支援を開始した。1997年のことだ。

 ここから富久町の再生が始まる。地上げでガタガタになった土地をまとめ直し、超一等地のポテンシャルを活用しながら住みよい我がまちを取り戻そう。地域のお荷物として放置された状態から、住民主導の再開発事業が動き出した瞬間だった。

 キーパーソンがふたりいる。再開発組合の理事長として住民を引っぱった笹野亨さんと、早稲田大学理工学部総合研究センター所属の研究者として献身的なサポートを行った増田由子さんだ。

 笹野さんは1970年に富久町で蕎麦店を開業。以来このまちを愛し、持ち込まれた10億円の土地買取話も一顧だにせずにきた。まちづくり組合の結成以前から住民間の調整役として奔走し、その後にできた再開発準備組合で理事長に抜擢される。

 偉ぶらずまちづくりを熱く語るその人柄に、住民の信が集まった。

 増田さんは子育てを終えて早大大学院に再入学。高齢者も暮らしやすいまちづくりを研究していた90年代に富久町と出会っている。

 住民アンケートを皮切りに、地権者と膝をつき合わせた勉強会、具体的な建築計画の提案、行政や開発業者との折衝まで、研究者チームを率いて惜しみない支援を続けた。

「自分のまちを守りたい」地権者の思いとコミュニティ再生の願いを糧に、ふたりは住民代表&専門家として先頭に立つ。

 人工地盤上の低層戸建、中層の賃貸集合住宅、55階建超高層マンションが同じ敷地内に並ぶユニークな計画は、このコンビあってのものだ。

 通常、再開発はデベロッパーやゼネコンが主導し経済価値優先で進む。富久町のような一等地かつ2.6ヘクタールもの大規模事業ならなおさらだ。

 しかし増田さんと研究者チームは、笹野さんら住民組合の声をすくい上げつつ大量の建物模型をつくり、採算性も含めて皆で検討しまくる手法を取った。そこから導き出されたのが、事業・経済性を担保する高層マンションと地権者が希望する住環境を実現する低層戸建を並行させる『ペントハウス+タワー型』プラン。現在の富久クロスの原型である。

 住民主導の再開発第一号と呼ばれるゆえんだ。

 越えなければならない壁もあった。

「大学の提案の事業化なんてできっこないよ」という視線、土地価格の見積もりに差をつけて地権者を分断しようとする動きや「ペントテラス建築は前例がない」と頭から否定する意見などが続出したという。

 それでも、と増田さんは振り返る。「ゼネコンも含めて会議の席に着いたのは、いい人たちばかりでした。みなさん『このまちは裏切れないよね』と言ってくださったのです」

 追い風も吹いた。旧住宅・都市整備公団(現UR都市機構)が参加したことで懸念だった債権の分散を免れ、さらに政府から“都市再生緊急整備地域”に指定されて新宿区も協力的になった。

 2015年9月、富久クロスは完成を迎える。1000を超えるタワーの分譲住戸は完売し、既存住民も多く入居した。利便性はもちろん、住まい手の希望に沿って住戸内部をオーダーメイドできる仕組みや多彩な共用施設、専門スタッフが常駐する防災システム完備など都心の超高層マンションに期待される多くの要素を備え、現在でも空きが出ればすぐ埋まるという。

 一方ペントテラスを選んだ22世帯は、念願だった“温かいコミュニティのある元どおりの戸建暮らし”を手に入れた。

 一見ぜいたくに見えるペントテラス暮らしだが、実はローコスト居住である。

 住民には年金生活の人も多く、計画の段階から生活資金を確保する仕組みがつくられた。権利の一部で中層集合住宅の一室を所有して賃貸に出し、家賃収入を再開発時の住宅建設費や建物管理費に充てている。

 住戸は採光・日照・換気まできっちり設計されているが、建材の仕様はゴージャス感のあるタワーより落とし、住まい手はタワー内スポーツジムの使用権利なども持たない。

 ここには大きなヒントがある。再開発で価値の上がった土地で既存住民が出費を増やさず暮らしを変えずに住み続けるための“知恵”ともいえる。

 おおかたの再開発事業では“元の住民が移転し、工事完了後に戻って新しいマンションに住む”のが半ば定石化している。しかしみんながみんな、それでいいのだろうか。

 眺めのいいピカピカの新築を楽しめる人はもちろんいるだろう。けれど一歩家を出れば顔見知りに会えた生活から一転、隣に住む人も定かではない鉄筋コンクリートの集合住宅暮らしになじめない人がいるのもまた不思議ではないはずだ。

 富久クロスのペントテラスは、お金を積んで都心に買った一戸建とは違う。かつてまちに存在したご近所づきあいや安心感、ぬくもりある風情=温かいコミュニティの継続を願った住民が、専門家の協力を得て奪われかけた大事な暮らしを守り抜いた証しなのだ。

 ビルの谷間に夢のように並ぶ可愛い三角屋根の家々が、少し違って見えてきはしないだろうか。

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