法相生起の考え方とは…過去の記憶か、未来の期待か 

北御門 孝 北御門 孝

以前に「家事の時短が進んだけど、時間の余裕はできた?」で取り上げたことのある「時間」について深堀したい。

「時間の流れ」は ①過去から現在へ、現在から未来へと流れていくものだろうか、それとも ②未来から現在へ、現在から過去へと流れていくものだろうか、という点についてだ。例をあげてみると、①では過去に罪を犯してしまったような場合を考えてみると、その人は過去の事実に振り回され、あるいは縛られ、生きていくことになる。仏教では「善悪業報(ぜんあくごっぽう)」と言うそうだ。それに対して②では例えば人と待ち合わせている状態を想像してみれば分かり易い。しかもその相手が会いたいと思う人であれば、待ち遠しく期待が膨らむはずだ。会える時間が未来からやって来て、充実した時間を過ごしたあと、そして過ぎ去っていく。

「法相生起(ほっそうしょうき)」の考え方で表すことができる。考えてみれば「時間」とは実体がなく、刹那的な「今」しか実在しない。過去とは記憶、未来とは期待である。①か②かは、主体の在り方によって異なるわけだ。概していえば、高齢者は①の過去に支えられ記憶を頼りにしている場合が多く、若い人は②の未来が豊かで期待が膨らむ場合が多いだろう。(浄土真宗本願寺派 碩学の梯實圓師の法話より)

もちろん、個人差はあるのだが、このターニングポイントは何歳ぐらいだろうか。私は、石川達三著の「四十八歳の抵抗」を想起した。四十八歳を迎えた大手損保会社のサラリーマンの主人公を「頽齢期の男性」、あるいは「初老の男性」として著わしている。この小説のなかでは「四十八歳」は明らかに①に属してしまっているのだ。しかしながら、「四十八歳の抵抗」は昭和30年に書かれた小説だ。近時の年齢に対するイメージとはだいぶ差異がある。おそらく現在でいうと六十歳ぐらいの感覚ではないだろうか。いや、「人生百年時代」と言われるのだから、もっと後ろにずれ込んでいると感じる人も多いかもしれない。もちろん正解などなく個人の主観だ。主体の在り方によって②の状態から①の状態へと変移していくのだ。

毎年、桜の季節がやって来ると「あと何回満開の桜を観ることができるだろうか」と考えてしまう。私はちょうど10年前に四十八歳を迎えたが、その頃からそういう感覚をずっと持ち続けている。ところで、神戸で五十八年暮らしてきて、一番のお気に入りの桜は王子動物園の大樹のソメイヨシノだ。自然とその樹の本に人が集う。まさに老若男女の顔ぶれだ。今年も楽しみにしているし、可能なら通える間は通い続けたい。もし再整備のために伐採されることがあるとしたら大変残念なことだ。樹木医が懸命に守ってきてくれた桜の樹々だ。できることなら大切にして欲しいと願う。

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