西日本に伝わる怪異譚
関西地方の古い言葉で、おなかが減ったことを「ひだるい」といいます。漢字で書くと「饑い」。あまり見たことのない漢字ですね。もう今はこういう言葉を使う人も多分居ないでしょう。
この「ひだるい」に関して、西日本一帯の言い伝えに「ひだる神(ひだるがみ)」というのがあります。憑き物や妖怪の類のものでしょう。旅人などが歩いていると、この「ひだる神」に憑かれるのだそうです。すると突然猛烈な空腹や疲労を感じて、手足が麻痺したり身体が動かなくなって、その場に倒れてしまうというのです。
行き倒れた旅人などの無念の霊が怨霊になって、通りかかった人を引きずり込む。昔の人はそう考えました。
紀伊半島の内陸部はとても山が深く、主要な国道でさえ夜になると真っ暗です。ヘッドライトの光は底なしの闇に吸い込まれ、真っ暗なルームミラーはなにも映しません。現代でもそうなのですから、まして電灯などのない頃にはもう、まさに「鼻をつままれてもわからない暗闇」だったことでしょう。そんな秘境とも言える地域ですが、そこには大峰山や熊野三山など霊場や寺社もたくさんあって、古くから人々が山々を往来していました。
そんな紀伊半島の、熊野本宮大社から熊野那智大社へ向かう古道に、大雲取越えという難所があったそうです。その近くには大雲取山と小雲取山という二つの山があって、その間には餓鬼穴という深い深い穴があったといいます。通りかかった人がその穴をのぞき込むと、必ずこの「ひだる神」に憑かれてしまう、というお話がいまに伝わっています。
人里離れた山の中、憑かれるともうにっちもさっちもいかない。ひだる神は命取りになるようなおそろしい憑きものでした。
その正体は…低血糖や脱水?
もうお気づきの方も多いと思われますが、これはおそらく今でいうところの「ハンガーノック」というものですね。身体を動かすエネルギー、グリコーゲンなどを使い果たしてしまって一気に低血糖になってしまう。現代でもたとえば自転車やマラソンなどの激しいスポーツをする人が、たまにこの状態に陥るといいます。
血糖値が下がりすぎると、身体がエネルギー不足になって動きを止めてしまいます。また、人間の脳の唯一のエネルギー源はブドウ糖ですから、脳の働きも低下してしまいます。具体的には冷や汗や動悸、手足の震え、意識障害、けいれんなどの症状が現れるとされます。
対処法はとにかく素早くエネルギーを補給すること。ブドウ糖や砂糖など糖分を含んだ飲み物などを摂って、安静にして回復を待ちます。
ひだる神の言い伝えでも、憑かれたときの対処はとにかく「なんでもいいから食べること」といわれています。そのための用心として「お弁当を一口だけ残して持っておく」という習慣もあったそうです。
これからの季節には、脱水もこれと似た症状を引き起こします。身体から水分や塩分が失われると、だるさやけいれんなど低血糖に似た症状が現れて、これも重度になると命に関わります。
低血糖も脱水も、最初は単に疲れたときと同じような感じで区別がしにくいので、自覚がないまま陥ってしまうことも多いといいます。空腹や喉の渇きを感じたら、食べ物も飲み物も早め早めに補給して、しっかりと休憩を取るなど身体を休めましょう。
特に近頃は、夏場には以前なかったような高温になることも多いです。日本の気温の最高記録は、ながらく1933年7月25日に山形で記録された40.8℃でしたが、2007年に埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市で40.9℃と74年ぶりに更新されました。そしてそれからこちら14年の間に、各地でたびたび40℃超えを観測しています。
用心してしすぎはないのです。
ひだる神の伝承も単なる怪異譚ではなくて、もしかすると当時の人々の生活の知恵や教訓だったのかも知れません。