百人一首成立の謎に迫る!意外と知らない百人一首の世界を探求〈3〉

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古典文学の中で、もっともポピュラーと言える「百人一首」。当コラムでは「百人一首」の基本についてご紹介していきます。前回は、「百人一首」が和歌を順序立てて配列した和歌集であり、冒頭と末尾のそれぞれ二首をご紹介しました。今回は、この作品をいつ誰が編んだのか、その成立について具体的に考察していきます。
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現存最古の「百人一首」は?

百首の和歌は、おおまかには時代順に配列されていて、最後の歌が鎌倉時代初めごろであることから、編纂者として最有力候補は藤原定家とされています。
定家の生没年は、応保二年(1162)~仁治二年(1241)ですが、定家の存生中の資料で「百人一首」の成立を示すとして、異論なく認められているものは残念ながらありません。
現在は、僧侶で歌人であった頓阿(とんあ 1289~1372年)の著書「井蛙抄(せいあしょう)」の跋文(ばつぶん)にある記述が、「百人一首」について記述した、もっとも古いものとされます。
定家の著した歌論書などの紹介に続けて、次のような記述があります。
又、嵯峨山荘の障子に、上古以来の歌仙百人のにせ絵を書きて、各一首の歌を書き添へられたる、……
ここで「嵯峨山荘」とは、定家が嵯峨野に構えた山荘を意味すると思われます。「障子」は現代の襖(ふすま)であり、「似せ絵」は鎌倉時代初期に流行した写実的肖像画のことですが、いわゆる歌仙絵で、その描かれた歌人一人ひとりに一首の和歌を書き添えられたものが障子に貼られたということのようです。「百人の……」とあるので、「百人一首」の誕生を示すものとして記述されたのでしょう。
現在知られる「百人一首」のなかで、最も古く歌人と和歌を列挙した本は、上述の頓阿の曾孫にあたる堯孝(ぎょうこう)が文安二年(1445)に書写したものですが、これに先行して応永一三年(1406)に藤原満基という人物が書写したとされる百人一首の注釈書があります。
年期記述については疑問視する論もありますが、正しいとすれば定家没から160年後で現存する最も早くに書かれたものということになります。藤原満基は、関白二条良基の孫ですが、良基は連歌の発展に寄与して準勅撰集の「菟玖波集(つくばしゅう)」の編纂をし、和歌を前出の頓阿に師事していますので、頓阿と満基は繋がるとも言えます。
満基が書いた本の表書きには、「百人一首抄 応永十三年写」とあり、中の本文冒頭には、まず、
小椋山庄色紙和歌
とあり、改行して、
右百首ハ京極黄門小倉山庄色紙和歌也。それを世に百人一首と号する也。……
と序文が続きます。「小椋(倉)山庄」は、頓阿の言う「嵯峨山荘」のことでしょう。「京極黄門」とあるのが定家です。この後には、定家の百首編纂の意図について記されています。定家は和歌の評価として実質内容(実)を重んじたのに、撰者の一人として編纂に与った「新古今和歌集」では表現本位(花)だったため、
黄門の心あらはれがたき事を口惜しく思ひ給ふゆゑに、古今百人の歌を選びて、我山庄に書きおき給ふ物也。
と、「実」を重んじて百首を成したこと、また、それは定家が単独で撰者になった次の第九番目の勅撰集である「新勅撰和歌集」と同じである、といったことなどが続きます。「百人一首」と、その別名の「小倉山荘色紙和歌」という名称が見えるものとしては、最も早い資料と言えるでしょう。
この長々とした序文の後に百首の和歌が記され、一首ごとの注釈を備えています。一首目の最初だけご紹介しましょう。
天智天皇
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露にぬれつゝ
「かりほの庵」とは一説は「苅穂の庵」。一説には、「仮庵のいほ」也。「苅穂」の時も、「かりを」と読むべきとぞ。但し猶「仮庵」よろしかるべきにや。古の歌は同じことを重ね詠む事、常の儀也。さて歌の心は、……

和歌の後、二句目の「かりほ」についての注釈部分だけを示しました。「苅穂」と「仮庵」の二説があって、後者を良しとして、「仮庵の庵」と理解しているようです。
このように、和歌の一語について丁寧に説明し、一首全体の内容を確定し、全体の主張や鑑賞すべきことを懇切に述べています。こうした形で、百首について丁寧な注釈を施してあります。
この本と若干の語句の差はありますが、大きく内容の酷似するものが伝わっています。連歌師として高名な飯尾宗祇の名を冠した「宗祇抄」と呼ばれる本です。写本、木版本ともに広く読まれたもので、いつ書かれたかを示す奥書には、満基が書写した約70年後にあたる文明十年(1479)のものと、明応二年(1493)のものがあります。
このように、現存する一番古い本が、すでに注釈書だということから考えれば、百人一首はそれ以前に広く読まれ、内容について吟味されていたことが推測されます。満基の序文には、定家自身が選んだ作者達への遠慮などもあったのか、
此の百首、黄門の在世には人あまねく知らざりける。……為家卿の世に人あまねく知る事には成れるとぞ。
ともあって、定家の子の為家の時代になって広く知られるようになったと記されています。


定家の日記「明月記」の記事

「百人一首」の成立に直接関わる資料として採り上げられているものは、
1.「明月記」の記事
2.「百人秀歌」
3.「小倉色紙」
の三種があります。まず、1についてご紹介しましょう。
定家が編纂に深く関わった「新古今和歌集」の成立は、元久二年(1205)三月、定家44歳の時でした。その30年後、文暦二年[嘉禎元年] (1235)五月二十七日、74歳になった定家の日記「明月記」の記事が以下のものです。
予もとより文字を書くことを知らず。嵯峨中院の障子の色紙形、ことさら予に書くべき由、かの入道懇切なり。きわめて見苦しき事と言へども、なまじいに筆を染めてこれを送る。古来の人の歌おのおの一首、天智天皇より以来、家隆・雅経に及ぶ。
読み易く直すと次のようになります。
自分は本来誇れる字は書けない。嵯峨中院の障子の色紙の形に、しいて私に書くようにと入道は熱心である。ひどく見苦しいが、何とか書いて送る。内容は古くからの人の歌を一首ごと、天智天皇から、今の家隆・雅経までである。
入道とは、定家の息子・為家の妻の父で、鎌倉幕府の重鎮だった宇都宮頼綱という武士で、出家後は蓮生と名乗り、嵯峨中院とは彼の別荘を指します。定家はその別荘の障子に貼る和歌を書いた色紙の染筆を望まれて、遠慮しつつも応じたということでしょう。
この記事は、先に出した「井蛙抄」跋文の記述に似ています。山荘の持ち主や歌仙絵の有無などに差はありますが、もしかすると「明月記」の記事が、そのままではないにしても伝えられた可能性も考えられます。そして、単純にこれこそ「百人一首」の成立を示す資料だという考えもあるのです。
百人とも百首ともなくても、天智天皇から始まることからも有力ではありますが、最後が後鳥羽院・順徳院ではないところが問題です。
この記事から遡って十数年前、承久三年(1221)五月に承久の乱が勃発し、乱後に後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡に配流となり生涯を終えます。「明月記」の記事は、まさに両院が幕府の処分を受けて配流されていた時期に重なります。「百人一首」がこの時期に作られたとしたら、両院の歌があるのは大きな問題となったでしょう。定家に依頼した入道(蓮生)は鎌倉幕府に直結した人物です。
また、同時期、定家は「新古今集」のあとの勅撰集「新勅撰集」を一人で編纂していました。定家は、この新たな勅撰集に両院の歌を入れて作りますが、主家の九条道家の要請で、やむなく二人の歌を削除して完成させたという経緯があります。その最終精選本を道家に献上したのは、文暦二年三月十二日、先の「明月記」の記事の約二ヶ月前ということになります。
新勅撰集の編纂と重ねて「百人一首」の成立、「明月記」の記述を考えるとさまざまな可能性が想定されます。


「百人秀歌」との関係

次は2の「百人秀歌」について見ていきます。
後鳥羽・順徳の両院の歌を欠いた、「百人一首」にわずかの差がある「百人秀歌」という作品が、昭和二〇年代に発見されました。この作品は、「百人一首」にある両院の歌の代わりに、「一条院皇后宮(清少納言が仕えた定子)」「権中納言国信(堀河天皇近臣)」「権中納言長方(平安末歌人)」の歌三首が入り、別に源俊頼の歌に差し替えがある点のみが違いで、歌数は百一首です。
天智天皇の歌に始まり、持統天皇・柿本人麻呂・山部赤人と続くのは、「百人一首」と同じですが、その後の歌順はかなり異なり、末尾は雅経・実朝・家隆・定家・公経の順です。「百人一首」で、最後に位置していた両院の歌はありませんが、「明月記」にある家隆・雅経が末尾というわけでもありません。
この「百人一首」と「百人秀歌」の成立にあたっての前後関係には両説あって定まっていません。つまり、「一首」が作られたが、鎌倉に遠慮して「秀歌」に改訂されたのか、「秀歌」が先で、後に密かに「一首」に直されたか、ということです。
また、もう一つ「百人秀歌」と配列が同じで、秀歌にある三首はなく、末尾に両院の歌を配置する「異本百人一首」というものの存在も報告されています。単純に考えれば「百人一首」と「百人秀歌」の中間的な作品とも言えます。そして、これらと「明月記」の記事とが、どのような順序で成立したか、様々な推論が成されているのです。


「小倉色紙」のこと

最後は3の「小倉色紙」についてです。
「色紙」とは、満基の書写した本にもあり、「明月記」にも記述がありますが、定家が製作し書いた真筆の色紙が現存するとの主張があります。諸機関・個人が所蔵するものを合わせれば、四〇数首になるとのことで、その中には後鳥羽・順徳の両院の歌もあるとのことです。これについては、すべて後世の偽作と見る説から、一部は真筆と見る説、すべて定家真筆と見る説まで判断は分かれています。
定家と後鳥羽院は、両者それぞれのプライドが元になって、承久の乱の前に定家が院の勅勘と言える厳しい咎めを受けて、関係は決裂しています。しかし、後鳥羽院が隠岐で歌人百人を選んで左右に分け競わせた「時代不同歌合」を作り、定家はそれに刺激を受けたという推察もなされています。
変動する時代と個性的な歌人達の思いが反映した「百人一首」の成立については、ミステリアスな謎解きの魅力があり、真実はいまだ見極められていません。
いまだに多くの人を魅了してやまない「百人一首」の魅力は、このようなところにも隠されているのかもしれませんね。

《参照文献》
百人一首 定家とカルタの文学史 松村雄二 著(平凡社)
別冊太陽 百人一首への招待 吉海直人 監修(平凡社)
百人一首に絵はあったか 定家が目指した秀歌撰 寺島恒世 著(平凡社)

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