信長・秀吉・家康のうち「家族信託」を“使った”のはダレ? ヒントは「事業承継」に成功した天才

北御門 孝 北御門 孝

戦国時代の三英傑といえば、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康であるが、この3人の人柄を知るのにわかりやすい比喩として、有名なホトトギスの歌がある。

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス 織田信長
鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス 豊臣秀吉
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス 徳川家康

このなかに1人だけ天才がいるという(「トップの教養」倉山満 KADOKAWA)。

天才の定義にもいろいろあるだろうが、「無から有をひねり出す人」が天才だとするなら、秀吉である。「殺す」は決心、「待つ」は根性があればできるが、「鳴かせる」には工夫、イノベーションが必要だからだそうだ。たしかに秀吉といえば、農民の倅から成りあがって戦国乱世を統一したのだから、普通の人とは違う、真似のできない天才かもしれない。

ここで全く違った視点でこの3人を見てみたい。それは、今でいうところの「事業承継」の視点だ。秀吉は、最初自分の甥の秀次に家督を譲るつもりで関白の座も明け渡していた。その後に淀君とのあいだに秀頼が生まれ、秀次を追い込んで切腹させてしまったわけだが、その時、秀吉は58歳、秀頼はわずか2歳だった。

それから3年後に秀吉は亡くなる。秀頼は5歳。当然、事業承継には幼すぎるし、時間をかけることもできなかった。秀吉が亡くなってから5年後には家康が征夷大将軍の座についた。そして残念ながら大坂夏の陣で豊臣家は滅亡してしまった。それに対して注目すべきは、家康の「事業承継」である。家康は自身が将軍になった2年後には、早々と秀忠に将軍の座を譲ってしまう。家康62歳、秀忠26歳のときだ。しかし、家康は全てを完全に秀忠に任せてしまったのではなく、駿府城にいて秀忠に指図し、執行させた。

先代と二代目の二人三脚の状態は家康が亡くなるまでの11年間続いた。このことが、江戸幕府が260年間も続いた礎になったのは間違いないだろう。そして、現下の中小企業にとって、これに近しいことが「家族信託(民事信託)」を使えば実現できる。自社の株式を信託財産として先代社長(委託者兼受益者)から後継者(受託者)に信託するのだ。このパターンでは通常、後継者に議決権が移ってしまうのだが、指図権を設定することにより議決権行使は先代社長に残すことができる。

家族信託のメリットは、
①贈与税の課税を受けない
②いつでも契約を解除し元に戻すことができる
③万一、先代社長が認知症になっても後継者が議決権を行使できるので社業が滞らない
などだ。身内の後継者が本当に経営に向いているのかどうかを、実際に経営に当たらせてみてから判断できる。不適当な場合は信託契約解除で元の状態に戻してしまい、他の施策(M&Aなど)を検討すればよい。

現在「事業承継税制」が時限的に設けられているので、自社にとってどういった承継計画が有効なのか、税負担も含め慎重に検討する必要があるのは言うまでもない。

一方で、織田信長は腹心・明智光秀に裏切られ、身内に家督を譲ることは叶わなかった。後継者が、光秀にしても秀吉にしても現下の事業承継に当てはめてみれば、MBO(マネジメントバイアウト)か。平和的に株式を譲渡し、「事業承継」したのとは全くもって違うのだが。

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